静謐な夜、いつもの夜

 彼の事を思うと気が狂いそうになる。どうにかして自分のものにしたい。この手の中で甘やかしたい。孵らぬひよこのように、この手の中で腐らせ絶え間なく愛撫したい。



 彼は、いつもどこかの夢を見ているようだ。遠くからもその髪だけで知れる彼は、ふとした拍子に魂が抜けたようになる。ぼんやりと宙を見つめて太陽に目を細める。
 そんなもの、あんまり見てはいけませんよ。
 思わず声が出そうになる。でも、何も言わない。見つけたら側に寄ってじっとしているだけ。彼はいつものように笑って俺を振り返り、いい天気だなどと言う。子供の話を延々として里の事ばかりを杞憂する。少し照れながらすりよって来たりもする。
 なんて可愛らしく愚かな男なのだろうと思う、気が狂う。
 こんな明るい場所はいけない。空から熱が降る場所なんていらない。彼はすぐにも溶けて無くなってしまいそうだ。彼を腐らせ溶かすのは俺の仕事なのだから、太陽なぞに先を越されて堪るものか。早く暗い所に連れていかなければ。真っ暗で二人きりになれる場所で、二人だけでしか出来ない事をしたい、焦燥、焦燥、焦燥。俺は必要以上の汗をかいて、でも偲びなのだから背中だけに流す。

 ああ、あちらに行きましょう。あの木の陰に行きましょう。
 俺は必死で彼の手を握って歩き出す。運動場を横切って、何度も何度も振り返って彼が手だけになっていない事を確かめながら小さな木立に紛れることを熱望する。くらくらと、眩暈がするほどに二人きりになりたい。それは、小さな木立を通り過ぎてどちらかの家に辿り着くまでは叶わない望みだから、俺は精々急いで歩く。俺に引かれながら、彼はうっとりと何か呟いたり囁いたり笑ったりしている。そんな彼を閉じ込めるためにドアが閉まり、閉まる音よりも早くに俺はがつがつと彼を抱きしめる。誰もいないことを全身で確認しながらサンダルを脱ぐ。軽い彼は、それで引きずられてふらふらと俺の胸に落ち、とても静かに抱き返す。手のひらがゆっくり俺の肩甲骨に貼り付き、乾いた匂いが彼から立ち昇る。

 表を子供が騒ぎながら通って行く。
 台所でぽたりと水がシンクに落ちる。
 俺達は、抱き締め合って息の根を止めるように背骨を逸らし、上がり縁でいつまでも動かない。抱き締めるととても軽い彼は、瀕死の蝶だ。抱く程に崩れていく。ぼろぼろと崩れ、俺の足元に蹲って時にはすすり泣く。俺のために愛で泣く。散らばった羽の上でひしゃげている彼は美しく、俺はいよいよ狂って彼を留めてしまおうと決める。虫ピンで留めるのだ。彼もそれを望み、従順に俺の沙汰を待ちながら泣く。
 ああ、あちらに行きましょう。あのカーテンの陰に行きましょう。
 俺はうなされながら彼の手を持って、するすると引きずって歩く。部屋中が回っているこんな夜は、なんと愛惜しいことか。彼はしくしくと泣くのを止めて、ベッドの上で俺に留め抜かれる。魂が二度と離れないように、俺の背中から彼の胸に、そしてその下の地獄にまで真っ直ぐにピンを刺す。すると彼は音無く笑うのだ。
 表からは豆腐屋のラッパが聞こえる。
 冷蔵庫がううん、と言って止まる。
 痛いのが好きだから恍惚と彼は笑い、夢中で俺を探す。もう、彼の目はあまり見えていない。運動場で俺が手を引いた時から、彼は自分では見ようとはしていない。俺が差し出すものを、毒でも闇でも、なんでも食らう。俺まで食らおうと首筋に噛み付く彼の唇はいつも剥けていて、下唇が剥けていて、傷みかけた果実のようなのだ。そしてあまりにも脆弱な音で、ぱりん、と誰かの心臓が割れた。

 ああ、あなたが、と彼は言う。
 いいえ、あなたが、と俺も言う。
 闇は深く、どちらの鼓動が止まっているのかは分からない。所詮、同じだろう。そう、この粘つく墨のような霧は彼の胸から溢れるものだ。俺の毛穴から滲むものだ。絡まってしまえば冥府も花畑もさして違いは無いらしい。赤く染まった自分の手が、何千本も天井から突き出している、そう美しい人は俺に囁いた。
 助けて下さいと言いなさい、俺は命令する。
 捨てて行って下さいと、彼は俺の首筋を食い破る。
 偲びなのだから俺は背中だけに汗をかく。皮一枚の欲望と恋情、血圧を上げながら俺は後者に留まって背中に汗をかく。彼は、いっかな俺を食い破るだけで勃ちもしない。焦燥と妄想と熱情と劣情と、ぐるぐるぐるぐる俺達は回り、子守唄を歌い過ごすだけの夜は、それだけで食い合う以上の狂気の時間だ。得体の知れない俺達には、まぐわうだけが似合いというのに、彼は子供になって眠る事を望む。

 こんな、偲びの夜など有り得ない。
 ああ、どうか行かないで、と彼は言った。俺の側に居て下さい、ああ、ああ、と彼は子供の声で言った。俺は、まるでいかされて気を遣るように彼に墜落しながら、小さく小さく呪うのだ。

 きっとあなたが先に死ぬのです。
 だから俺が綺麗に食べてあげますよ。
 必ずここで死になさい。
 必ず俺のお鍋に入るんですよ。
 冷蔵庫はいつでも空けておきますから。
 さあ
 さっき抱き合ったあのたたきで死ぬとお言いなさい。

 彼は、とても幸せそうに俺の名を呼び、契約は成立した。



 彼の事を思うと気が狂いそうになる。どうにかして自分のものにしたい。この手の中で甘やかしたい。孵らぬひよこのように、この手の中で腐らせ絶え間なく愛撫したい。
 けれど
 彼はこの空間を出た瞬間にただの上等な忍に戻り里のために死んで粉々になる予定だと他ならぬ俺が知りだから早く俺の内臓に触ってと囁いてみても可憐な人は俺に食われる夢を見ながら無駄に夢精をした。

 ああ、なんて、勿体の無い。






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