踵の音まで生真面目に、背後にぴったり付いているアグリアスの気配を感じながらラムザは地下への道を探していた。ラッドは別の通路に入ると言うから、途中で別れていた。
城の内部は彼らの予想以上に人気がなく、時折踊り出る衛兵は一太刀で片がつけられる程度だ。屈強な者どもはアグリアスの言ったように前線に配置されたのだろう、次第に城の中心部に入り込むが、新たな手勢は見えなかった。
「この辺りに枢機卿の部屋があったよね」
足を止め、ラムザはアグリアスを振り返った。微かに焦りを額の汗に見せてアグリアスは首を回す。
「・・・そのはずだ」
「確認する? 枢機卿が案内してくれれば早いんだけどね」
「おそらく城から脱出しているだろうが、」
言いかけて彼女は素早く反応し背後を振り返った。
「反逆者め!」
5人の兵士が廊下の奥から怒声を上げた。
「まずい」
頷き合って走り出す。いかに腕の劣る者でも5人と斬り合うには廊下は狭かった。アグリアスの記憶に頼って整然とした扉の前を抜けて行けば、風を切る音と共にラムザの頬を矢が掠めた。
「何だ!? この狭い場所で、」
アグリアスが速度を緩めたラムザを見返る。目をすがめてラムザは敵を睨み、速度を上げるようにアグリアスを促す。
「小型の弓みたいだ! 飛距離は短いからともかく逃げよう!」
手の平で頬を拭って言った時、
「ラムザ!?」
アグネスの大きな声が聞こえた。
「どこだ、アグネス!?」
立ち止まりかけるアグリアスの腕をラムザは掴み、
「1部屋右向こうの通路だよ! ジャッキーとムスタディオも一緒だ! 向こうも速いからきっと追われている!」
「なぜ分かる!?」
「僕は耳が良いんだよ! とにかく先に行って!」
目の前は行き止まりの壁、ラムザはアグリアスの腕を掴んだまま、壁に体当たりした。その反動でアグリアスをアグネス達のいる通路側に押し出す。アグリアスが退いた場所に矢が2本突き刺さった。
「合流するか!? あちらは枢機卿の部屋に近い!」
「そうしよう!」
矢を避けながらラムザは姿勢を低くしてアグリアスに並ぶ。隣の通路から、ラムザが言った通りにジャッキーが跳ねるように飛び出て来た。両手でアグネスのローブを掴んでいて、ラムザと同じように壁にぶつかりながらアグネスをアグリアスに投げつけた。その後ろからムスタディオが何発かの銃弾を打ち込みながら通路を横切った。ジャッキーは飛ぶように更に右前方の回廊に走って行く。
「アグネス!」
絡まるようにしてアグリアスが支え、踏み締めた足を無理やりに方向転換し、アグネスを引き摺るようにしてジャッキーを追って走る。
「あんた達、無事!?」
「無論! 枢機卿の部屋に飛び込む!」
ジャッキー達の後ろからも弓師が追っているらしく、ラムザは床に飛び込んで彼女達が出て来た通路を横切った。何本かの矢が彼の体を掠り、鎧を鳴らした。
「下手すりゃ袋小路だよ!?」
「地下への通路というものは、城の主の部屋からも延びている可能性が高い! 入ったらすぐに鍵を掛けろ、時間を稼ぐんだ!」
「分かったよ!」
返答を聞くなり、アグリアスは猛然と速度を上げた。程無く簡単にジャッキーに追いつき手を伸ばし、驚くジャッキーの肩に手を付いて軽く彼女を飛び越えた。
高さだけはある通路の天井にアグリアスの重く束ねた髪先が擦れた。天井近くに嵌った色ガラスを通して濃淡のある夕日の赤が一瞬彼女を照らし出し、ラムザは唇を薄く開けた。
着地して数歩跳ぶとアグリアスは角を曲がった。一拍遅れて追いついたラムザらの前方で青く塗られた木の扉に取りついている。
「全力で走れ!」
ラムザ達に顔を向けたアグリアスが、号令のように叫んで扉を引き開け、全員がほとんど同時に扉の内部に駆け込む。最後のアグリアスの肩に一本の矢が刺さったかに見えたが、かつん、と音がしてそれは床に落ち、扉が重く閉まった。アグネスがアグリアスの下に潜ってかんぬきを勢い良く締めた。
「誰もいない・・・やはり、逃れたのか・・・」
ラムザが緊張の孕む声で言う。喧騒を逃れた執務室の中は息が止まるほどに静寂だった。オヴェリアの供として訪れた時に見た部屋は、同じような時間であるためかまるであの日の続きであるかのように見えた。主だけがいない。
「私が見よう」
押し留めるような手をラムザの肩に置いてアグリアスが並んだ途端、どか、と扉が鳴った。飛び上がったジャッキーが扉を押さえる。
「離れておけ、槍で付いてくるかもしれない」
静かに言うアグリアスと彼女を見つめるラムザは完璧に同時に剣を抜いた。アグリアスが先に一歩を踏んで部屋を見渡し、迷わずに右の扉に向かう。
「開ける。援護を頼む」
造り込まれた彫像の横顔を見せてアグリアスは扉の前で全員を振り返った。強く頷く面々を確認して扉に手を掛けた。
軽い音でノブが回る。アグリアスは扉だけを中に開け放して一旦下がり、そして一気に飛び込んだ。ラムザが間髪を入れずに続き、ジャッキーが弓を番えて走る。アグネスに伏せさせられたムスタディオが絨毯の上から部屋の中を狙い、アグネスはぴた、と側の飾り棚に体を寄せて手を上げた。
「これはこれは。皆さん無事のお着きのようだ」
甲高く笑い声を混じらせて聞き知った声が響いた。
「・・・枢機卿・・・」
アグリアスが切先を向けたままじりじりと壁際に退いた。前方に見える祭壇の上、枢機卿が以前と変わらぬ威厳ある出で立ちで立っていた。柔和な笑みを浮かべて彼らを見渡す。
「皆、お入りなさい」
その部屋はむしろ執務室よりも広く、石造りの礼拝堂のように見えた。枢機卿の私室、というには趣きが異質だった。
「ここは私だけの礼拝室。誰も追っては来られません。さあ、邪魔者達が来る前に入るのです」
彼らの困惑に答えるようにドラクロワの静かな声が降った。遠くで兵士らの声と扉を破ろうとする音が聞こえる。慎重に頷くラムザを見て、アグネスとムスタディオがそろそろと部屋に入る。それを見届けた枢機卿は壇上の壁に取り付けられた引き手を降ろした。すると開いた扉がぱたりと閉まり、続いて重いものを引き摺る音と共に扉の前に石の壁が滑った。
「・・・なんなのよ!?」
慌ててアグネスが扉に戻るが、危ない、とムスタディオが腕を掴んで止める。壁は完全に扉を覆い、最後に、どすん、と音を立てて閉まった。
「歯車の仕掛けだな・・・軋む音が聞こえたよ」
ムスタディオが石の壁を触って舌打ちした。
「これで密室になっちまった・・・」
「感謝致します、枢機卿。少々追手を煩わしく思っていた所」
ごく自然な語調でアグリアスが言った。彼女は剣を抜いたまま、枢機卿の正面に進む。
「これは女騎士どの。ウォージリスに向かわれたと聞きましたがな」
「大切な方を残し、私がどこへ行けるとお思いか?」
「ほほほほほ。気が強いことこの上ない」
枢機卿は壇上から一行を見下ろした。穏やかな顔には子供の悪戯を叱る者の笑みが見て取れた。
「全く、ガフガリオンも口ほどにも無い・・・このような若い未熟な者達に敗れるとは」
アグリアスに並んだラムザが、ぶる、と肩を震わせた。
「それとも相手が悪かったか。ベオルブの血筋のなせる技、とでも申し上げましょうか・・・それがたとえ妾の子、だとしてもね・・・」
粘つく視線を受けて無言で枢機卿を見上げるラムザを、アグリアスは微かに気にした。枢機卿は全員をゆっくりと見渡す。
「しかしこれ以上の邪魔は遠慮願いたいものですね。大人しく聖石を渡せば安全に帰してあげましょう。考えたくはありませんが・・・抵抗するなら、容赦はしませんよ?」
「・・・オヴェリア様はどこだ・・・」
何かを噛み殺す声でラムザが言う。
「おやおや」
枢機卿は嬉しそうに両手を広げた。
「助け出してどうしようと言うのです? ベオルブの庇護を捨てて独り戦うおまえに、何が出来ると?」
「何もしないよりマシなんだ・・・!」
「ほほほほほ」
一歩、枢機卿は前に出る。壇上の祭壇に片手を付いた。
「無駄な努力はおよしなさい。いかに志が高くとも力を持たない者には何も出来ぬ・・・」
自分の台詞に酔うように、降りかかる雪を受けるように、枢機卿は空いた手を上に向けて彼らを見回した。
「おまえは非力な人間、なのですよ?」
「誰もが非力な人間なのです」
アグリアスが真っ直ぐに顔を上げて言った。
「志が全てを左右するのです」
「青い、青いこと!」
枢機卿の笑い声が脳を掻き回すように響いた。アグネスが舌を打つ音がそれに混じった。
「・・・オヴェリア様はどこだ」
「ここにはいませんよ。ゼルテニアに向かいました」
いや、真実には、もはや何処にもいないのかも、とドラクロワは低く呟き、アグリアスは眉を上げる。
「王女はおまえ達の助力よりも我々の権力を選択したのですよ」
「嘘だ!」
「有り得ない!」
ラムザとアグリアスが同時に答えた。高く笑い、枢機卿は顔の前で片手を振る。
「何の不思議がありますか? 黙って殺される侮辱を拒否して王位に付くための一歩を踏み出したのですよ。自力で王座に付くにはおまえ達では心許ない故、我々を選んだ。王族として、当然だとは思いませんか?」
「オヴェリア様が王位を望まれる事はない!」
アグリアスの反駁にドラクロワは肩を竦めて笑う。
「王族でもないおまえに何が分かると?」
「あの方は、ただ平和を望んでおられる!」
「正しき王だけが平和を導くことが出来る。それがお分かりになったのだ」
賢明なことです、と呟く枢機卿の声にアグリアスは唇を噛む。こつこつとからかうような音で踵が壇上を横切った。
「この枢機卿が信用出来ない、と言うのならば、おまえ達も我々と手を組めばよろしい。されば明日にでも姫に会えるように取り計りましょうぞ」
明らかに含みある声に、ざわ、と低い場所の者達は息を漏らした。思った通りの効果にドラクロワは満足げな表情を浮かべ、ラムザを選んで視線を投げた。
「天騎士の末息子よ」
緊張と共に肩を上げるラムザの耳の先は赤い。
「最も王に近い側近、その位置を手に入れたくはないか?」
「そんなもの、」
「父をも一気に越えるぞ?」
「そんなもの、望んではいない!」
ほほ、と首を振ってラムザを同情に満ちた目で眺める。
「兄達の鼻をあかしてやりたい、そう思ったことが無いとは言わせぬ。妾の子、下賎の血を引く者よ、と陰で疎まれ日向で施しを受ける、それがおまえの人生だったはず」
ぎりぎりとラムザが噛み締める唇を、アグリアスは見つめる。
「この荒れて歪んだ世界を憂えているのは我々も同じ・・・我々と共に見下した者どもを粛清し世界を変えたいと、新しい世界を見てみたいと、おまえならばそう思うのではないですか?」
ラムザは怒りを吐き出すように、ふうっと大きく息を吐く。
「僕は世界を変える事などに興味はない」
じり、とドラクロワに一歩寄る。
「僕は世界を変えたいなんて思わない、そんな事が出来ると思うほど僕は傲慢じゃない。一部の者の思惑の犠牲になって苦しみ命を落とす人達がいる、それが許せないだけだ。粛清して得る新しい世界、そんなものはこれまでの世界と変わりはしないんだ」
「ほほほほほ。それが出来るのですよ、聖石を持つ者ならば望み通りの新しい世界を造ることが、ね・・・!」
「何を・・・」
ラムザが半ば呆れて切先を下げた瞬間、
「下がれ・・・」
アグリアスが突然呟いた。さっと見つめるラムザの前、アグリアスは蒼白な面を嫌悪に歪めている。
「アグリアスさん?」
「分からないのか・・・? 下がれ、下がれ・・・」
彼女の踵が重そうに床を滑る。ラムザもつられるように少し下がった。
「おまえが手にしているその聖石、その力を使えば世界はおろか万物の真理までをも変えることが出来る・・・」
ドラクロワは笑みを浮かべ、懐から赤く光る聖石をゆっくりと取り出した。ぎらつく光線が部屋を切り裂くように放たれる。ドラクロワは恍惚の表情を浮かべている。
「口で言っても分からぬのなら、身に知らしめるしか無いでしょう・・・」
「聖石が!? あの光は、」
「下がれ! これは・・・この気配は尋常では、」
「愚かな者たちよ!」
アグリアスの言葉に被さってドラクロワの声がした。しかし、それは地を揺するような低音を混じらせ、全員の肌を粟立たせた。
「おまえ達にこの素晴らしい力を見せてあげると致しましょうか!」
ドラクロワは高く聖石を掲げた。瞬間、血が降りかかるような強烈な光と城の崩壊を思わせる轟音が部屋を満した。それぞれが頭を庇い、腰を曲げる中、よろめいた足を踏み締めたムスタディオが最初の悲鳴を上げた。
「・・・何だよ、何だよあれ!!!」
「ひっ・・・!」
本能の動きでジャッキーが逃げ、アグネスにぶつかると二人とも床に転がって抱き合った。その横で、茫然とムスタディオは銃を構える。
「ラムザ! 下がるんだ!」
剣を掲げたアグリアスがラムザを揺さぶって叫ぶ。
――どうだ・・・驚いたか
響く音。もはや声ではない。
――さあ、この私を楽しませてくれ・・・おまえ達の悲鳴、苦痛、断末魔を捧げ聞かせてくれ・・・・!
目の前のもの、それは割れた醜い肉塊だった。毒の気配を悟らせる腐臭が辺りに撒き散らされ、「枢機卿だったもの」が動く度に湿った音がひたひたと石の部屋にこだまする。
「何・・・」
ラムザは茫然とアグリアスを見た。壮絶な恐怖が浮かんでいるが、汚れた視界を浄化させる透き通った木の葉色の目はドラクロワだったものを射抜くように睨み付けていた。
「この世のものではない・・・!」
「倒すしかないね・・・」
「そのようだ・・・」
アグリアスの頬から一筋の汗が頬を伝って落ち、背後の3人が、ばたばたと足音を立てた。
「どうするのさ!」
「あれ、あれって、」
固まろうとする動きを悟り、
「散れ!」
アグリアスが剣を振り上げた。
「前を見ろ・・・」
アグリアスが低く言った。
「前を、見るんだ。倒す、倒せ・・・!」
自らに言い聞かせる言葉にラムザも正面を向く。
――我が名はキュクレイン・・・! 愚かなヒトよ、その身に我が力を知るがいい!
精神をも引き寄せようとするように、内部の空洞を瞬かせる肉塊。両手を広げ、キュクレインは何かを詠唱し始めた。その低く流れる音を切り裂き、ジャッキーの最初の矢が飛ぶ。キュクレインの動きは存外に早く矢は掠りもせず、続けざまに撃つムスタディオの弾も壇上の祈祷台にめり込むばかりだ。
「化け物め!」
祭壇を降り始める腐臭を追って、ラムザが床を蹴った。
「ラムザッ!」
稲妻を地に走らせようと構えたアグリアスが引き剥がすように剣を降ろす。その切先を掠めて飛び込むラムザの剣が、最後の一段に足を残したキュクレインの胸辺りに埋まった。
――無駄だ・・・無駄だ!
押し掛かるほどに強烈な悪意の音にアグリアスの膝が揺れた。
なんという感情だ・・・!
自身の内部にある神聖な思いに汚物が投げ込まれる。腕を伸ばせば届く位置のラムザが見えない。目眩と嫌悪に体が下がる。
「ラムザ・・・!?」
暗緑色の光が浮遊している。本能的に退り、たらたらと垂れる冷たい汗を瞬きで目の中から追い出せば、光は回るようにラムザを包んでいた。
「何だ・・・!?」
小さな竜巻となって天井に消え行く光は皮一枚でアグリアスには届かなかったが、ラムザは声も無く床に倒れ伏している。
「ラムザ!?」
彼の目だけがアグリアスを追っている。それだけがラムザの動かせる全てのようだった。動きを封じられた背中にぬめった足裏が掛かった。
――何者にも邪魔は出来ぬ・・・
キュクレインは歯を見せると胸の剣を引き抜き、壇上に投げ捨てた。ぎし、と鎧に巨塊の重みが乗ってラムザの目が苦痛に細められる。
「奴を撃って! ラムザにファイガが当たるよ!」
悲痛に叫ぶアグネスの声にムスタディオが走った。
「ラムザ! 助けるからな!」
狂ったように銃が撃ち込まれる。キュクレインは煩そうにムスタディオを見、低く詠唱を唱えた。更に体重が掛かり、ラムザの鎧に亀裂が入る。
「下がれ、ムスタディオ!」
「うわっ、これっ、何、」
前に出過ぎていた事にムスタディオが気がついた時には、既に暗い緑の光が纏わりついていた。悲鳴のようにファイガを呼んだアグネスは同時にムスタディオに走り、降りかかる矢を腕で払っているキュクレインを業火が襲った。
視覚を奪う煙と焦げた腐臭の壮絶な臭気、むせながらアグネスはムスタディオに駆け寄るとその体をざっと調べる。きょろきょろと辺りを見回し同じくむせて、ムスタディオはアグネスの顔を伺った。
「なんだ?・・・何も無いみたいだけど」
「術がかかってる、死の宣告だよ!」
アグネスはムスタディオの額に手を置いた。蠢く魔道文字がその額に刻印されている。
「何、なんだって?」
「悪い、死んで!」
「ええっ!?」
「説明は後! その内ぱたっと死ぬから、それまで働きなさい!」
「ええっ!?」
「痛くないから我慢しな!」
ええ!? と事態を飲み込めていないムスタディオを放ってアグネスは晴れ始めた煙の中心に目を凝らす。ずるずると厭らしい音に、弓の鳴る音が混じる。
――非力な生き物よ・・・その悲鳴は私への捧げ物・・・
振動する礼拝堂、中心の煙の中でアグリアスとキュクレインは睨み合ったままだった。アグリアスはラムザの腕を掴み、渾身の力でキュクレインの足の下から引き摺り出そうとしている。既に目も閉じ、口の端から血を流しているラムザに力は無い。アグネスの炎は懸念通りにラムザにも直撃していた。
アグリアスの剣は主の手を離れてキュクレインの腹に埋まっている。相打ちなのだろう、悪意の存在はアグリアスの鎧を貫き肩に手首を埋め、体を一振りした。刺さっていた数十本の矢が粉々になって飛び散ちり、傷をえぐられる痛みにアグリアスの顔が歪む。思い出したように銃の音が鳴り響き、しかし弾はことごとくキュクレインの手の平に受け止められ、床に転がった。
「当たらない!」
「気を散らすくらいにはなってる! 諦めずに援護しな!」
ムスタディオを背後に付けてアグネスは部屋の端に移動する。
「今度は二人共に当たる・・・!」
冷気を指先に貯め始めたアグネスはぎりぎりの距離まで進みながら吐き捨てた。それでも「あれ」を止めない訳にはいかなかった。
アグリアスの上体が揺れている。しかしラムザを離そうとはしない。キュクレインの傷から血の代わりに滴る腐敗液のぬめりを利用し、アグリアスは一層力を込めてラムザの腕を引いているようだった。肩から零れる血がラムザの頬を叩き、ラムザの目が見開いた瞬間、甲高く笑うキュクレインは空いた手でアグリアスの腕を掴んだ。引き寄せた途端、埋まっている指先の爪が、アグリアスの肩を貫通して突き出した。
「あああっ!」
首を逸らしたアグリアスの悲鳴に、凄まじい癇性の声が被さった。
「離しなさいよおおおおおっ!」
ぎょっと皆が仰げば、ジャッキーが弓を振り上げてキュクレインに突進していた。既に矢が尽きたのだ。
「下がんな! ジャッキー、馬鹿をしないで!」
慌てて叫ぶがアグネスの声など聞こえてはいない。
「離せえええ! 離せってばあああ!」
恐怖に崩壊してしまったかのように、ジャッキーは狂った動きでがんがんと肉塊を殴り、弓が半ばから折れてしまっても止めようとはしない。一振りの腕で弾かれ、しかし何度でも立ち上がってはかじり付いて行く。キュクレインは薄く開けた唇を歪め、どす黒い詠唱の言葉を漏らした。
その微かな隙、アグリアスは腐敗液に塗れたラムザを思い切り引いた。
「頼む!」
そのまま投げるように背後に押し遣られたラムザは、石の床を滑ってアグネスの足元まで辿り着いた。さっとムスタディオがラムザに飛びつき、金の針を首筋に刺しながらケアルを結んだ。
「下がれ、ジャッキー!」
アグリアスは叫びながら肉塊に刺さったままの己の剣を掴む。切り裂くと衝撃派のような咆哮が牙の間から漏れ、やがてアグリアスの肩からキュクレインの腕がずるり、と抜けた。半ば転げながらアグリアスは背後に下がり、途端、緑の閃光に貫かれたジャッキーが床に崩れて、キュクレインはまたも振動を伴う咆哮を上げた。
――苦痛を・・・断末魔を・・・・!
アグリアスの素早い詠唱が白い光を生む。
「聖光爆裂破!」
浄化の炎に青白く揺れ、キュクレインは後退した。びたびたと祭壇をずり上がるが、アグネスのブリザラが歩を止める。冷気が去ったことを見届け、素早くアグリアスが突撃の姿勢を取る。
「ムスタディオ、撃って!」
振り返ったアグネスの目の前、ムスタディオは突然人形のように力を失い、斃れた。
「ちくしょう、早かった!」
雷を呼ぶ指を下げようとしたアグネスの足に何かが触った。
「アグリアスさんを援護して・・・!」
ぎしぎしと、割れた鎧を鳴らしてラムザが立ち上がった。
「・・・分かった!」
気を集めながら前進するアグネスを見送り、ラムザは金の羽を振る。
「何・・・なんだよ・・・」
ふらふらと頭を泳がせながらムスタディオも起き上がろうとする。
「駄目だ、這って行け! 奴の足を止めろ!」
押し殺した、というよりは回復しきらない苦痛の声、見上げるラムザの背は薄いアンダーウエアが剥き出しで、それも鋭い爪に掻かれて幾筋もの血が滲んでいた。
「おまえ、剣も無いだろ・・・! それじゃ、」
「行け!」
圧される声にムスタディオは反射的に頷いた。暗く激怒を宿らせたラムザの目は、暗い部屋の中で確かに光っていた。
「・・・死ぬなよ、ラムザ!」
最後にラムザに向けてケアルをもう一度結び、ムスタディオは言われた通りに銃を持って這って行く。
「余裕があったらジャッキーも頼む!」
彼女は床に伏せたままぴくりともしない。
「ああ!」
余裕など、誰にも有りはしなかった。ジャッキーの脇では、アグリアスが再び肉に奪われた剣を取り戻そうと姿勢を低くしている。彼女の周りには暗い怒りが渦巻いて詠唱が流れていた。
「これが・・・これが聖石の力か!?」
真直ぐにキュクレインに近づきながらラムザは叫んだ。鋭い爪でアグリアスを牽制している悪意の塊は、その目をラムザに向けた。
「邪悪そのものじゃないか! 邪悪を滅ぼすために聖石はあるはずなのに!」
キュクレインはアグリアスの剣を抜き取り取り、軽く背後に飛ばした。祭壇に当たった剣は、高く澄んだ音を響かせながら奥の壁際まで跳ねていく。
――これが・・・かつて世界を支配したルカヴィの力なのだ・・・
「ルカヴィ!?」
「来るな、ラムザ、」
アグリアスの言葉が途切れる。重く、アグリアスの周りを毒気が吹き抜けていった。がく、と膝を突き、青ざめた顔をそれでも上げて、アグリアスは来るな、とラムザを見た。だからラムザはより声を大きく、キュクレインの前に立つ。
「ルカヴィだと? 枢機卿はどこだ、どこへやった!?」
くくくく、と面白そうにキュクレインは目を細めた。
――ここにいる・・・私がドラクロワだ・・・いや、ドラクロワであったもの、と言った方が良いだろう・・・聖石の力で私は脆弱な人間を超越した・・・私は・・・神になったのだ・・・!
「馬鹿な・・・!」
言葉を失ってラムザはルカヴィと名乗ったものを見つめた。息づく肉片が空洞を開き、牙すら見え隠れしている。粘土を重ねたような体には、めり込んだ銃の弾が尻を見せているが血の一滴も流れてはいず、その代わりに腐敗した粘液がだくだくと床に溜まりを作っている。
「こんな邪悪な・・・これが聖なる力・・・?」
――聖も邪も辿れば一つ・・・全ての源は力・・・私は神になったのだ・・・! 脆弱で愚かなヒトよ、死ぬがいい・・・!
緑色の閃光が空洞に満ちる。ラムザは避ける様子もなく床に屈んだ。
「ラムザ! 避けろ!」
両手を床に突いて眼を開くアグリアスが見える。そしてはっきりとキュクレインの詠唱が聞こえた。
――闇の奥底・・・死の恐怖たゆとう闇の衣・・・
「大地の怒りがこの腕を伝う! 防御あたわず、疾風!」
悪夢・・・!
「地烈斬」
同時に光が駆け抜けた。キュクレインの体から千切れた肉片が飛び、ラムザはごろごろと転がっていく。しかし、一人ではなかった。
「アグネス!?」
「・・・ば、か・・・!」
微かに声はするがそれ以上の反応は無い。固まった彼女の額には魔道文字がうねっている。
「後で・・・殴るからね・・・」
それだけを言って彼女は昏睡した。眠りの呪縛を受けたのだ。
「アグリアスさん!」
ムスタディオの悲鳴と、がつ、と大きく金属音がしてラムザは横たえたアグネスの脇に立ち上がった。体を引き摺って祭壇に飛び込むアグリアスが倒れながら剣を握るのがキュクレインの後に見え隠れしている。彼女の足首を掴むキュクレインの背中は縦に裂けかかり、しとどに腐液が流れ落ちていた。
――許さぬ・・・許さぬぞ・・・!この粗末な生き物めが・・・!
「アグリアス・・・!」
だっと駆け出すラムザにムスタディオが続く。首を狙って銃弾が撃ち込まれ、ラムザはキュクレインに飛び掛った。
「これを!」
足首を持ち上げられ逆さに吊られたアグリアスは、キュクレインの足の間から剣を投げた。かんかんと剣は階段を跳ね、回りながらラムザの足元に滑ってきた。キュクレインはアグリアスをぶら下げたまま、祈祷台に上がっていく。
「離せ!」
剣を握ってラムザは吼えた。階段に足を掛けると、キュクレインは見せつけるようにアグリアスを高く掲げる。
――これがヒトという哀れな生き物・・・なんと愚かな・・・
「離せ! その人はおまえが触って良い人じゃない!」
一段を登ればキュクレインの手が絞まる。足首を握りつぶそうとしているのだ。アグリアスを眼前に垂らして盾にしているために、ムスタディオも動けないでいる。アグリアスは両手を垂らして目を閉じ、毒を帯びた肌が徐々に青白く染まり始めていた。
「離せ! 僕を倒したいんだろう!?」
――哀れな人間よ・・・全て滅びるがいい・・・!
その時、微かにアグリアスの唇が動いた。爪の辺りに小さな光が灯る。キュクレインは一層強くアグリアスの足首を握り、彼女の体は小さく跳ねた。
――無駄だ・・・何をもってしてもこの力には逆らえぬ・・・!
ごき、と鈍い音がした。アグリアスの目は見開き、苦痛に喘ぐ唇が鋭い呼吸音を吐き出す。かっとラムザの体温が上がり、足が勝手に動き出す。
「おおおおお!」
奇声を上げてラムザは剣を振りかざして一気に階段を駆け上がった。
刺し違えても、刺し違えても・・・!
――愚かなものどもよ・・・!我は不死身だ・・・!
「穢れ無き天空の光よ・・・」
苦痛に混じる声。耳を疑ってラムザはアグリアスに叫んだ。
「止めろ! 自滅するっ!!!」
「血に塗れし不浄を照らしだせ・・・!」
ホーリー、と呼ぶ声と共に強烈な白い光がアグリアスの腕から立ち昇り、キュクレインに渦巻くように絡みついた。
「・・・! アグリアスさん!!!」
何も見えず、ラムザは階段を転げ落ちる。落ちた床にムスタディオも倒れている。互いにもがき合って懸命に体を起そうとするが、押さえつけられたように膝を立てる事が出来ない。
――おおおおおお! この私が、この私が敗れるだと・・・!
光は渦巻きの頂点をキュクレインの頭部に置いて、それを中心に四方に輝いた。キュクレインの断末魔の咆哮が焼け付くように礼拝堂に響き渡る。
――あの方・・・あの方の復活まで・・・死ぬ訳にはいかぬ、いかぬ・・・!
「アグリアス!」
「アグリアスさん!」
――おおおおおおおおおおおお!この私が、この私があああああああああ!
どさ、と重い落下音に我に返った瞬間、ラムザは体の自由を知った。礼拝堂は元の薄闇、ぱっと立ち上がると祭壇に駆け上がった。
「・・・アグリアス!」
祈祷台に崩れかかってアグリアスは倒れていた。急いで抱き起こし、ぴたぴたと頬を叩く。
「アグリアス、アグリアス!」
「・・・ああ、生きている・・・」
自分でも驚いたようにアグリアスは呟いて目を開けた。
「・・・なんて無茶を!」
「アグリアスさん、大丈夫か!?」
ムスタディオも追いついてきた。
「足を折った・・・それだけだと思う・・・」
「それだけ、なんかじゃないよ!」
「・・・おまえも相打ちを狙っただろう、見逃せ・・・」
難儀そうにアグリアスは笑い、ラムザはむっとしながら彼女を抱きかかえて立ち上がった。心配そうに覗き込んだムスタディオは、懐を探ってポーションをアグリアスに振りかけた。
「世話を掛けるな・・・」
「いいって。俺より全然マシだって」
頭を掻きながら、あいつら見てくるよ、とムスタディオは祭壇を降りて行く。まずジャッキーを揺り動かして起き上がらせた。彼女も眠りの呪縛にかかっていたようだった。呪縛の主が消えために、ムスタディオが駆けつける前にアグネスも頭を振って立ち上がっている。彼らを見下ろしながら、ラムザはゆっくりと階段を降りながら呟く。
「あなたが粉々になってしまうかと思ったよ・・・」
顔は前を向いたまま、アグリアスを見もしない。
「大丈夫だと分かっていたからな・・・無茶には理由があるものだ」
憮然とした表情に微笑んでアグリアスは答えた。
「適当な事言って!」
「本当だ。ホーリーは聖騎士には害を成しにくいと聞いている」
私の信仰が正しいものならばな、とアグリアスは付け足して満足そうに笑った。
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