なぜ、訪れる気になったのか、自問しても答えは出ない。任せておけばなんとでもなろうもの、わざわざ足を運ぶ必要は皆無だった。それよりもすべき事が山積みなのだと、誰よりも分かっているのは彼自身だ。しかし彼はそこに来た。
火災は無かった。あったのは若干の破壊とその後の略奪だ。その屋敷にあった金品はこの国の建て直しに必要ではあったのだが、続く戦乱で困窮した市民が略奪の中心とあっては咎める者もなく、また、所詮はだたの屋敷、人手を割いて警護する必要を感じなかった執政者の判断によって、主を無くしてわずか一年の間に屋敷の中身はほぼ空となっていた。
要塞とも例えられた屋敷は、正面扉さえ開いたままだった。その扉のあちこちにも深くえぐった跡がある。飾り石などの装飾さえ盗まれたという事だろう。
何とも知れぬ瓦礫を踏み割りながら彼は進んだ。よく見知った廊下を辿り、開け放された扉から各部屋をざっと眺めながら階上に向かう。確かに中身は何も無い屋敷であったが、その堅牢な作りそのものは全く損傷を受けてはいない。彼が視察に訪れた第一の目的は、この屋敷を文字通りの要塞として使えるかどうか、判断するためだ。未だ動きの読めないロマンダに対する威嚇設備は再建したジークデン砦だけでは足りない。最適の位置にあるこの屋敷を駐屯地とするのは彼にとって自然な発想であった。
二階部分も同様に、簡単な修復と家具などの搬入だけで充分使用に耐えるだろう事を確認する。そうして巡る内に、一階を見下ろす事のできる橋のような張り出した廊下が目に入って彼は眉を寄せた。既に色は変わっていたが、彼には血痕であると即断できる大きな染みが、幾つもその辺りにばら撒かれていた。焼け焦げたらしい、煤が付着している場所もある。ここで誰が戦ったのか、目に見えるようだった。しばし剣のきらめきを追うように目をやり、そして彼は背を向けた。
最上階に足を踏み入れ、ここでは念入りに各部屋に踏み入って検分する。この階はかつての住人が私室として用いていた部分であり、隠された金庫などが荒らされずに残っている可能性があったからだ。案の定、最も重要であると思われる部屋の床の隅を持ち上げると、大量の文書が見えた。別の部屋では隠し棚の中に価値の高い装飾品が収められていた。彼は一旦廊下に出ると、硝子を失った窓から身を乗り出して声を上げた。眼下の何人かが頷いて屋敷の中に入る。部下達を待ち受けて指示を出すと、彼は探索を再開した。
東側部分、三つ目の窓の前の部屋は扉を失っていた。内部はベッドのシーツに至るまで見事に盗まれていたが、打ち捨てられている物の中に、妙に鮮やかな色を見つけて彼は手に取った。埃を被ってくすんではいたがはっきりと元の色が判別出来る。形が変わりすぎているので始めは何物とも知れなかったが、気付いて彼は不覚にも息を飲んだ。
それは、二人の少女が使い古したリボンを解し、鎖のような紐を編んで遊んだ名残だった。
彼は、中心となるこの屋敷に入る前に使用人が使っていた棟を見ていたが、彼が一番気にしていた部分は不法侵入した者が出したらしい火災で焼けてしまい、本当に何も残っていなかった。だから心のどこかで彼の愛した者が遺した何かを、この部屋に期待していたのだった。
懐からハンカチを取り出し、丁寧に埃を払ったそれを包んでまた胸の奥に収める。そして、それ以上の探索は止めて部屋を出た。彼がこの部屋の主にしてやれる事はそのくらいしかなかったからだ。
そして隣りの部屋の前に立った。扉は外れかけていたが内部が見えない。柄にもない逡巡をして、意味も無く振り返ってから、彼は扉を引いた。
そこは、あの少女の部屋と同じような有様で、小さなサイドテーブルすら消えていた。ベッドは薪にでもされたのだろう、木っ端だけが見える。
何もない。
彼は静かに踏み入った。迷い無くベッドがあった部分の床に向かい、膝を付いた。何箇所かを叩き、音の違う場所を指で探ってかすかなへこみを回しながら押した。するとその床石は想像よりもはるかに軽い手応えで浮き上がり、簡単に横に滑った。
そこには、子供ならば一抱えほどの箱が、その箱だけが、入っていた。
また、彼は意味も無く振り返った。そして、何気ない風にその箱を持ち上げて床に置いた。
蓋がほとんど埃を被っていない。ずっと隠されていたためだろうか。いや、空洞は埃を生む程度には大きい。彼は誰もいないその荒れた部屋の中で、自分の中で最も冷静な表情を作った。その途端に塞がったはずの脇腹の傷が痛んだが、眉一つ動かさなかった。
蓋を外す。中には、彼の記憶と一致する小さな村がひっそりと訪れる者を待っていた。彼は、かつてこの部屋にいた二人の少年の理想を一つ一つ視線で辿った。
小さな村、密やかな夢、何も分かっていなかった彼らそのものがその箱の中にいた。
そして。
たった一つ、彼に見覚えの無いものが箱の中に存在していた。
無くしたはずの水車だ。新しい歯車を探そうとはどちらも言い出さなかったために、水車小屋はただの小屋になっていたはずだった。そこに、小さな水車が取り付けられている。
それは、明らかに子供が作ったものではなかった。木の小片を削って組み合わせたもので、川にさらせば本当に回るだろう精巧なものだ。彼が指先でそっと触ると、褪せた水色のリボンの上で水車はくるりと回った。
彼は上着のポケットに手を入れた。指先に挟めるくらいの小さなそれを取り出して水車の隣りに置く。そして箱の蓋を持ち上げた。
「可愛らしいものを見つけたな」
背後からの声に、振り返りもせずに蓋を閉じる。
「中を見ろ」
立ちあがって床の空洞を指さし、不審に眉を寄せる顔に苦笑した。
「突き落として閉じ込めたりはしないさ」
「どうだかな……」
言いながら男は屈み、空洞に頭を突っ込んだ。
「何もないぞ?」
「何も無いな?」
「ああ、何を探しているんだ」
「だから、何も無いんだ。おまえが証人だ」
不服そうな男に笑い、彼は箱庭を元通りに空洞に収めた。
「随分と機嫌がいいな」
「気のせいだ」
「いや、機嫌がいいぞ。……不気味だ」
「言ってろ。来い、こっちを外す。手伝え」
「いよいよ怪しい」
「いつもの事だ、いい加減に慣れたらどうだ」
二人で隣りの敷石を外した。それを空洞の上部にはめ込み、元あった石と入れ替えた。
「これじゃあ、もう開かないと思うんだが」
「当たり前だろう、そうしたんだ」
「……怪しいな」
「聞き飽きた」
ガラクタを適当に撒いて床を動かした痕跡を消すと、彼はそこから背を向けた。そして、斜めになっている扉に手を掛けようとして、やめた。
「開けてくれ」
はあ? と言う男に腕を組んで見せる。やれやれと呟いた男は一つにくくり上げた髪を揺らし、はいはい仰せのままに、と扉を押した。
やがて、勇ましく栄えるようになった部屋の床下で、時折水車はくるりと回る。
側に添えられたぴかぴかに光った歯車だけが、それを知っている。
話としては「箱庭」で終わった方がいいのかもしれませんが、彼らのその後を思えば寂しい、
それでもなんらかの救いが欲しいと思って書いた後日談です。タイトルはありません。
「箱庭」がちょっと短いような気もしましたので、おまけのつもりでひっそりと?リンクしておきました。
お気に召しましたら、こちらもうりぼうさんへの捧げ物ですv
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